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在学生の制作活動から卒業後の活動までを綴る
「SEIANOTE(セイアンノート)」です

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“好きなもの”を手放さなかった結果 辿り着いた「漫画家」という職業

INTERVIEW

卒業から15年目

“好きなもの”を手放さなかった結果
辿り着いた「漫画家」という職業

現在(2023年8月時点)『good!アフタヌーン』(講談社)にて漫画『うちの師匠はしっぽがない』を連載中のTNSK(ティーエヌエスケー)さん。同作コミックスは11巻まで刊行、アニメ化もされている人気作。
しかしながら、TNSKさんは大学時代洋画クラスに在籍。在学中は漫画家になろうとも、イラストレーターになろうとも全く考えていなかったそう。
「もっといい道があったかもしれないけど、失敗しないとわからなかった」と振り返る、TNSKさんの大学時代から現在を追いました。

TNSKさん

漫画家/イラストレーター

1984年大阪生まれ。2008年に洋画クラス卒業。2009年『時ドキ荘』(電撃コミックスEX)で漫画家デビュー。5作目となる『うちの師匠はしっぽがない』(『good!アフタヌーン』にて連載中)が「次にくるマンガ大賞2020」ノミネート、2022年にアニメ化。

興味を持ったら掘り下げる。
生粋の”オタク気質”ゆえの洋画専攻!?

 大正時代の大阪を舞台に、上方落語を題材に繰り広げられる漫画『うちの師匠はしっぽがない』。2019年から『good!アフタヌーン』(講談社)で連載をスタートし、現在も続く長期連載作品となっています。2022年にはアニメ化もされた本作。上方落語家の桂米紫さんが本作を読んで「僕は泣きました。電車の中で。」とツイートし、漫画好きのみならず、落語ファンにも注目され、話題を呼んでいます。


主人公・まめだは、後に師匠となる大黒亭文狐の高座に衝撃を受け、落語家を目指す豆狸の女の子。まめだが落語の沼に引き込まれていくのと同じように、上方落語ならではの「音」が聞こえてくるような表現は、物語が進むにつれ、読んでいるこちらもどんどん上方落語に興味が深まっていく。(『うちの師匠はしっぽがない』(講談社)/アニメはAmazonプライム・ビデオ、U-NEXT、FOD、Hulu他で配信中)


 大学時代から漫画を描きまくっていたのかと思いきや、TNSKさんが卒業したのは洋画クラス。油絵でキャラクターなどを描いていたわけでもなく、在学中は抽象画を描いていたそう。
「小学生から中学1年生くらいまでは、アニメやゲームの絵のようないわゆる”オタク絵”を描いていたんですけど、当時(90年代)はまだ”オタク”はちょっと異端扱いだったので、描くのをやめたんです。同じくらいの時期にギターを弾きはじめて高校生になり、いろんな海外のバンドを知るうちにCDジャケットのアートワークを『かっこいいな』と集めだして。そうすると、よく思い出せないんですけど、『アートっていいね』みたいな話をバンド仲間でもして、ベタですけどマネやモネ、ピカソを観に展覧会に行っていました。美大を目指したのは、当時観た映画の主人公が絵画修復師で、『かっこいいな』と思ったからです(笑)」


TNSKさんがまだ漫画を描き始める前、卒業制作展で発表した作品(2007年)。「さすがにもう記憶が定かではないですが、当時は確か”都市”について描いていたような気がします。ただ、十数年ぶりにこれを見て、レイアウトや画面の埋め方のやり口が今でも変わっていなくて笑いました」とTNSKさん。


 洋画クラスに入学したものの、半年ほどで周囲とのズレを感じはじめたTNSKさん。
「みんな本当に絵が上手で、今思えば逃げただけだと思うんですけどね。多分、油絵を描くことが好きじゃなくて、みんなみたいに、毎日朝から晩まで描く情熱がない。それで3年生くらいからバンド活動のほうに打ち込むようになりました。当時の思い出は遊んでいる記憶しかないのですが(笑)、家にいるよりも楽しかったので、毎日大学には行っていましたね」

原点に立ち戻り
人気絵師から漫画家デビューへ

 卒業後は就職せず、友人に薦められて観たアニメ作品を機に自分が本当に好きだったものを思い出し、イラストをイラストコミュニケーションサービス「pixiv(ピクシブ)」に投稿し始めます。



[写真1枚目〜2枚目]pixivに投稿し始めた2008年の作品。
[写真3枚目]人気オリジナルキャラクター”高木さん”。2015年のコミケで発表されたビジュアルは、タイポグラフィとの組み合わせも印象的。
[写真4枚目]背景の描き込みに惹き込まれる2015年の投稿作品。


「大学のときはまわりの目を気にして、自分がやりたいこと、好きなことを見失っていたようにも思います。当時はまだ”俺はオタクなんだ”って、胸を張って言えるような感じではなかったですし……。でも、ネットの世界なら、まわりの目を気にせずに実験的に利用できる。最初はお絵かき掲示板みたいなところでドット絵のキャラクターを描いてみたら『かわいい』と言ってもらえて。そこで多分、承認欲求が満たされる瞬間があったんでしょうね。当時はプロになるつもりはなかったんですけど、pixivができて、ランキングが上位になっていくのがうれしかったですね」


2013年のコミックマーケットで販売したイラスト・CC集。


「成安造形大学で学べて良かったなと思うのは、デザインだったりアートだったり、たくさんの作品に触れることで『これはダサい』『これはいい』みたいに、振り分ける能力が身についたことです。今でこそオタク×デザインで新しい価値観が定着しましたが、当時はまだそういったことの創世記でハイセンスなものは少なかった。絵があまり上手くない中で出てこられたのは、おそらくそういった部分で差別化ができていたから注目されたのだろうと思います」


 ネットを通じて、クリエイター同士の交流も生まれ、仕事の依頼も寄せられるようになったTNSKさん。ゲーム会社に就職した大学時代の友人と久しぶりに再会した夜、思わぬ展開が待っていました。
「友人が『pixivってサイトがあって、この人の絵が上手でさ』と話題に出した、その絵を描いている人と実は繋がりがあったんです。そのことをポロッと漏らしてしまい、そこから激詰めされて身バレしました(笑)」。
思いがけないところで繋がった「好きなこと」の連鎖。それはまた、TNSKさんの創作活動が広がり、後押しするきっかけにもなりました。



 そんな中、雑誌での漫画連載の声がかかり、4コマ漫画『時ドキ荘!』(アスキー・メディアワークス)の連載がスタート。それまで漫画を描いたことがなかったTNSKさんでしたが、フルカラーで1週間に8本を制作する日々が始まりました。
「なにせ初めての経験だったので、やり方も、つくり方も手探りで挑んでいました。当時は本当にダメダメだったんですけど、途中でちょっと展開が生まれてきて、描きたいことが出てきたんですよね。後半は、体裁は4コマなんですけど、もうそれを飛び越えてストーリー漫画になっちゃってました(笑)」

「やりたいことは絶対に曲げないで」
背中を押した編集者の言葉

 デビュー作の連載が終了する頃には、「物語をつくるのは楽しい。漫画を描くのは向いているかもしれない」と感じていたTNSKさん。続けざまに『ブラック★ロックシューター THE GAME』(KADOKAWA)、『カラスマ0条探題』(ワニブックス)、『あいどるスマッシュ!』(講談社)を手掛けた後、現在連載中の『good!アフタヌーン』(講談社)から声がかかります。
「4作目を手掛けた時点で、売上も伸びていなかったし、かなりストレスも溜まっていて、『次の作品でダメだったら漫画家を辞めよう』と思っていました」



 TNSKさんが作品の題材に選んだのは、上方落語。
「バトルものやファンタジーを期待していたであろう担当編集者に提案したら『落語!? 正気か?』みたいなリアクションでした(笑)。でも、最後かもしれないし、やりたいことをやろうと思いました」

 1話をしっかり描き込んで提案したところ、編集者のリアクションも上々。
「思い出深い話がひとつあって。講談社にご挨拶しに行ったとき、チーフの方に『我々も色々と口うるさく言うこともありますが、あなたのやりたいことは絶対に曲げないでください』と言われたんです。当時は、やりたいことがなかなか実現できないもどかしい環境で悩んでいたこともあって、その言葉が泣きそうになるくらい、すごく嬉しくて『この部署の力になりたい、恩返しをしよう』と。今もそう思いながら描いています」

 コミックスの3巻が刊行された頃、『うちの師匠はしっぽがない』は「次にくるマンガ大賞2020」にノミネート。TNSKさんは自主的にこれまでの繋がりからクリエイターたちに声をかけ、プロモーションビデオを制作し、これが注目を集めます。


ショート落語アニメとしてアップした動画は、400万回再生超え(2023年8月現在)。「この動画が目にとまって、アニメ化の話になったようです」とTNSKさん。


 アニメ化、海外版も刊行され、「連載開始時は4巻くらいで終わると思っていた」というコミックスも現在(2023年8月)11巻まで発売中。「上方落語を『面白い!』と思った初期衝動が消えないうちに描かないとダメだなと思っています。今はやりたいことを100%やらせてもらえている状態で、世に出せている。つまり、誰かのせいにまったくできない状況になりました。誰にも明日のことはわからないですけど、必要とされているうちは漫画家を続けたいなと思っています」

失敗からしか学べない。
「恥ずかしい過去をたくさんつくってください」


 大学時代、まわりの目を気にしすぎるあまり”本当に好きなこと”を誇れなかったTNSKさん。しかし、卒業後に自分のルーツに立ち戻り、コツコツと発表し続けた結果「やりたいことは絶対に曲げないでください」と背中を押してくれる人にも出会うことができました。そんな今、大学時代の自分にかける言葉を尋ねたところ、「そっと放置しておく」との答えが。
「絶対に『こうしたほうがいい』と言われたら、やらないんですよ。今もそうですけど義務感が嫌いな性格なので『やらなきゃいけない』と思うと、何もできなくなってしまう。学生時代の自分はカッコつけていましたし、実力もないのに口だけ達者でイヤな奴(笑)。これまでたくさん失敗してきましたが、僕の場合は失敗しないとわからなかった。若いうちにいっぱい失敗してほしいので『イキリ散らかしたそのまま行ってください。そして恥ずかしい過去をたくさんつくってください』と言いますね」

誰も見たことのない風景を立ち上げる仕事。 世の中を変える作品の力を信じて

INTERVIEW

卒業から18年目

誰も見たことのない風景を立ち上げる仕事。
世の中を変える作品の力を信じて

抽象的なイメージや言葉を汲み取り、見たことのない風景を現実世界に立ち上げるのが、現代アートチーム・目 [mé] で「インストーラー」の役割を担う増井宏文さんの仕事。
「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」などの国際展で勢力的に作品を発表するほか、「さいたま国際芸術祭2023」ディレクターに就任するなど、目 [mé] として多忙な日々をおくる増井さんですが、今日までの道のりは紆余曲折。
大学時代、そして卒業後のターニングポイントを振り返りながら、制作を続けられた背景に何があったのかを伺いました。

増井宏文さん

現代アートチーム・目 [mé] インストーラー

1980年滋賀県生まれ。2004年に映像クラス卒業後、研究生を経て創作活動を続ける。2006年に南川憲二氏とwah document(ワウドキュメント)として活動。2012年、荒神明香氏、南川憲二氏とともに現代アートチーム・目 [mé] を結成。


互いの能力を認め合うチームで
自分の仕事を全うする

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13(photo by 津島岳央)


 2021年7月16日、東京・代々木に突然現れた大きな顔。「なんだこれは!?」と、SNSで多くの人が写真を投稿して話題となりました。これはアーティストの荒神(こうじん)明香さん、ディレクターの南川憲二さん、そしてインストーラーの増井宏文さんによる現代アートチーム・目 [mé] によるアートプロジェクト《まさゆめ》。東京都とアーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)による公募にエントリーし、2000件以上の応募から選出され、実現したプロジェクトです。

 目 [mé]の特徴のひとつが、3人がそれぞれ異なる役割を担っているチームであること。プロジェクトの起点となるイメージやアイデアの種は荒神さんから発せられ、それを南川さんがコンセプトなどの肉付けを行いディレクションし、増井さんの役割はイメージをかたちにしていくことだと言います。一般的に、美術の世界で「インストーラー」とは「作品の展示設営をする人」という意味で使われますが、増井さんの肩書きである「インストーラー」は、従来の言葉の意味とは異なります。



[写真1枚目]巨大なおじさんの顔を宇都宮の空に浮かべたプロジェクト。目 [mé]《おじさんの顔が空に浮かぶ日》,
2013 -2014, 宇都宮美術館 館外プロジェクト(photo by 笹沼高夫)
[写真2枚目]国道沿いの旧店舗にあたかもそこに実在していかのようなコインランドリーを出現させた。目 [mé]《憶測の成立》, 2015, 越後妻有トリエンナーレ[写真3枚目]空き家を展示室へと改装した作品。2022年7月からは十和田市現代美術館のサテライト会場として活用されている。目 [mé]《space》, 2020, 十和田市現代美術館(photo by 小山田邦哉)


「アーティストとしての才能を持つ荒神と、ディレクションの才能を持つ南川と、イメージをかたちにする力や場をつくることが得意な僕とで、それぞれのクリエイティビティをいかしながら一緒にやってみようと南川が呼びかけて、そこから長い時間をかけて話し合い、目 [mé]はスタートしました。僕の仕事は、荒神と南川が考えたプランをドローイングやコンセプトが記された企画書などから読み解くところから始まります。企画書を見て『むちゃくちゃ面白いやん!』と思えば、どうやってつくろうかな? と考えますし、ピンと来るものがなければ2人に質問して、3人が『これは面白くなるかも』と納得できるまで話し合うこともあります。まだ見たことのない、抽象的なイメージやコンセプトを自分の中にインストールして、見えるかたちにしていく。そういった意味で『インストーラー』という言葉を使っています」



「景色として広がる海を、遠くのものを近くでみるように表現するのに試行錯誤しました」と増井さんが語った作品。
目[mé]《景体》, 2019, 森美術館「六本木クロッシング2019展:つないでみる」(photo by 木奥惠三)


 さらりと仕事内容について語る増井さんですが、ドローイングや企画書の段階では、そのイメージは誰も見たことがないもの。スケール感、空間、形状、素材……etc, イメージを風景として立ち上がらせるには、あらゆることを具現化していかなければなりません。見たことがないものを、どうやって増井さんは制作しているのでしょうか?


増井さんが手応えを掴んだと話す《状況の配列》、2014、三菱地所アルティアム。
荒神さんのドローイングをもとに景色を立ち上げた。
設営中、はたまたバックヤードのような左右対象の2つの部屋(写真3、4枚目)を進んでいくと、
その先にぼんやりとした光が……。


「抽象的なものをかたちにしたのは《状況の配列》がはじめてでした。暗闇の先に、視認できるかできないかくらいのぼんやりとした光がある作品。信頼できるスタッフと一緒に昼夜を問わずあの手この手で何度も調光を繰り返して、ようやく作品のイメージをかたちにすることができました。「あぁ、つくるってこういうことか」と実感できた作品です。長年やってきてわかったことは、最初に”つくること”を意識しながらドローイングやコンセプトを見ると上手くいかないので、”自分がつくること”を考えないようにして見るようにしています。《景体》のドローイングを見たときも『ただ波をつくるのではなく、遠くの深い海がそこにある、ということが重要なんだろうな』と理解して。荒神と南川が言っていることで、例えば、山をつくるときに小さな木々をつくっていけば山にはなるけれど、それはジオラマでしかなくて『遠くの山』にはならない。それと同じで、波にとらわれると砂浜に打ち寄せる波のような”嘘っぽい波”ができてしまって『これは違うよなぁ』と。そこでスタッフとフェリーに乗って海を見に行って『あ、あれだ!』って(笑)。遠くの海をイメージしながら、それを手元にもってくるように制作しました」


自分たちでリノベーションした埼玉県にある目 [mé]のアトリエ。


 目 [mé]の作品はかなりスケールの大きなものが多く、制作は増井さんを中心に複数のスタッフとともに行うことが多いそう。制作スタッフとイメージを共有し、スケジュールやクオリティを管理するのも増井さんの仕事です。2012年に目 [mé]を結成してから現在までの制作メモが記されたノートには、設計図や素材のメモのほかに、円滑に制作を進めるための言葉も繰り返し書かれていました。


試行錯誤の軌跡が残る、数十冊にもおよぶ増井さんの制作ノート。


「特別教えてくれる人もいないし、自分のやり方が合っているかも不安だったし、どうやったらいいチームづくりができるのかを考えた時期もあって。よくスポーツの監督の書籍を読んだりもしました。制作スタッフといい関係性を築くことも、毎回つくったことがないものを制作することも、客観的な視点を持ちながらコツコツちょっとずつ進めるしかない。目の前に物質として存在するものが、作品になる瞬間があるんですけど、それをスタッフと一緒に共有できることが幸せですね」


いい作品をつくるために必要なことは
苦しくても、自分と向きあうこと


 目 [mé]は「さいたま国際芸術祭2023」ディレクターにも就任し、約2年先までスケジュールはいっぱい。2012年の結成以来、作品を発表するごとに注目度が増している状況ですが、そこに至るまではひと筋縄ではなかったようです。増井さんは研究生を経て卒業後、働きながら個人で制作を続けていました。友人たちと京都にシェアアトリエを借り、年2〜3回のペースで作品を発表していたあるとき、その後活動をともにする南川さんと出会います。

「当時、『すごい作品をつくりたい』と意気込んではいたものの、それがどんなものかわからない状況でした。卒業して2年後の2006年、wah documentを複数人のメンバーですでに始めていた南川に出会い、その活動に加わりました。」


[写真1枚目]wah27「グランドにお風呂」(2008年/協力:アーティストインスクール、東士狩小学校)。その名の通り、グラウンドに風呂をつくり、夜には北海道音更町東士狩小学校の家族が入浴した。
[写真2枚目]岐阜県大垣市で実施したwah31「照明器具を飛ばす」(2008年/協力:京都造形芸術大学 GALLERY RAKU)。


 wah documentの活動内容は、日本各地へ赴き、そこで一般募集した参加者とその場で出し合ったアイデアを実現していくというもの。「今思えば、自分が感動できるものは何か? というのを探していたような気がします」と増井さんが振り返るように、たくさんのアイデアの中からただ純粋に「面白い」と感じたものを次々とかたちにしていきました。


[写真1枚目]2009年、隅田川で実施したwah35「川の上でゴルフをする」(主催:アサヒビール芸術文化財団/航行協力:会田興史、平山尚、二光商運ほか)
[写真2枚目]2010年、埼玉県北本市で実施したwah47「家を持ち上げる」(主催:北本市/協力:キタミン・ラボ舍/協同制作:ORERA)。
[写真3枚目]2010〜2011年にかけて実施したwah55「ふねを作って無人島に行く!!」(主催:北本市/協力:北本団地自治会、千葉県富津「勘次郎丸」、戸田造船所、金谷アートプロジェクト、ひののんフィクションスタッフ、キタミン・ラボ舎)


 京都を拠点に活動していた増井さんですが、wah documentとしてアーティスト・川俣正氏の東京都現代美術館での展覧会『通路』(2008年)への参加を機に上京を決意。

「東京都現代美術館で作品が展示できるなんて、この機会を逃したらこの先何十年、いや、もしかしたら一生ないかもしれないと思い京都での仕事も辞めて、カバン2つだけ持って上京しました。そのときはもう腹をくくって、食べていけるかどうかは考えずに『いい作品さえつくればなんとかなる』と。ただ……全然いい作品ができなくて、その後苦しむんですけど(笑)」

「いい作品をつくりたい」その一心で制作を続けるものの、納得いくものにたどり着かないジレンマは募る一方。そんなときに荒神さんとの出会いがあり、増井さんは改めて自身のクリエイティビティと向き合うことになります。




「なかなか納得いくような作品ができない状況で、僕は南川のクリエイティビティに対する嫉妬みたいなものも生まれていて、そんな時期に荒神に出会って『僕はもう7年くらい真剣にやってきたけど、アーティストとしての能力は荒神に負けてるよな』と認めざるを得なかった。7年かけていろいろと試してみたけど、僕には圧倒的に0を1にする能力が足りなかったんですよ。本当にいいもので勝負する世界では嘘が通用しません。雰囲気でつくったとしても、本質の部分は見透かされてしまう。自分にないものを受け入れて、他者が持つ能力を認めることも必要です。それは簡単なことではないし、当時はものすごく苦しかったですけど、クリエイティビティを分配しながらひとつのチームでやってみようと。結果、自分のコンプレックスを捨てられたことですごく仕事がしやすくなりましたし、それからは徐々にいい作品ができていったように思います」


つくりたい「何か」を
探し求めた4年間

 そもそも、増井さんが成安造形大学に進学したのは「何をつくりたいかはわからないけれど、”つくりたい”という気持ちだけがあったから」と言います。

「高校3年のときに美大を目指している友達がいて『美大って何なん?』と聞いたら『芸術家になれるところ』って。え!? 芸術家ってなれるもんなん? と、ショックを受けました(笑)。芸術系の大学に進学しようと決めて、成安造形大学を選んだ理由はコンパクトで異なる専攻も近いところにあるので『この環境なら自分が何をつくりたくなってもできそうだな』と思ったからです。入学してからは、自分が何をつくりたいのかわからなくてエネルギーしかないから、山の中にステージをつくったり、グラウンドの端っこにバーをつくったり、屋上にペインティングしたり、いろいろ遊びました(笑)。当時は『遊び』というかたちだったけれど、”何かしよう”と模索していたんだと思います」


大学1年生の時の増井さん。実習室の屋上にて…。


 デザイン科映像クラス(現:情報デザイン領域 映像コース)に入学し、大学祭の実行委員会に参加したことで他領域にも友人ができた1年生の冬、増井さんは大学を辞めようと考えていました。

「『ここにいたらアーティストになれないんじゃないか、もっと厳しい環境に行かないといけないんじゃないか』と考えたんですよね。友達や家族にも相談して、大学を辞めて上京しようとしていたんですけど、あるときふと『今の環境でできないならダメだ』と思ったんです。要は、アーティストになれないのは環境のせいではなくて、自分がただやるべきことをやってないだけだなと気づいた。創作活動は誰かに求められて行うものではないので、やる理由はそんなになくて、辞める理由のほうがどんどん増えていくんですよ。でも、大切なのは自分で決めてやること。そのことに気づけたのは大きかったと思います」


 まだ見ぬ「何か」を探していた4年間。増井さんがようやく作品をつくることの面白さを実感したのは研究生の修了制作でした。それは、「◎月◎日の◎時◎分に空にあげてください」と印字したヘリウムガス入りの風船を街中で配り、その時刻に高い丘から見るという作品。


研究生の修了制作で2005年に実施したプロジェクトは、その後wah documentでも2011年6月と10月に実施。
wah53「風船を飛ばす」
(協力:成安造形大学、京都造形芸術大学、空の芸術祭実行委員会、横浜市文化観光局)。


「映像クラスだったことも影響していると思うんですけど、映画のワンシーンというか、風景やシチュエーションに興味を持っていて『景色のような作品がつくりたい』と制作したんですよね。風船を配っているときに、魚屋のおじさんが『もっと風船ちょうだい!』と声をかけてくれて、ほかの人に『これを浮かべたら空に絵ができるねん』って説明してくれたり。制作のプロセスを含めて『なんか面白いな』と。ただ、当時は創作活動で生活していけるとは思っていなくて、研究生が終わっても、何か別の仕事をしながら制作をしていくイメージしかなかったですね」


挑戦し続けるからこそ信じられる
作品が世界を変える力

 個人での創作活動をスタートしてから18年あまり。制作のスタイルも、取り巻く環境も大きく変化しましたが、増井さんの根底にある衝動は大学入学前から変わりません。取材中も繰り返し発せられた言葉は「とにかく自分が”すごい”と思えるものが見たい、つくりたい」。それは目 [mé]のチームが挑戦し続けていることでもあります。




「副業を持ちながら創作活動を続けることは考えないようになりました。自分がやっていることは世の中に必要で、それだけを生業に生活することはできると思います。年間の事業計画を立てて、税金を払って、つくったことのないものの見積もりを作成したり……大変なことも正直多いです(笑)。でも、いい作品が世界を変えると、ずっと思っています」

 そんな増井さんが、学生時代の自分へ贈るメッセージは……?

「僕は忘れっぽくて過去に執着がないタイプなので、自分が『これかな』と思うものがあれば、まずやってみるようにしてきました。『違うな』と思えば、また別の方法や機会を探せばいい。だから後悔とかもそんなにないのですが、1年〜2年生あたりの自分には『ダラダラすんなよ、一生懸命やれよ』と言いたいですね。もうちょっとできたんじゃないかなとは思います。今もそうですけど、結局はコツコツやるしかないですからね」

日々の生活で使いたい。新しい伝統工芸品3選

CULTURE NOTE

日々の生活で使いたい。
新しい伝統工芸品3選

「工芸品」と聞いて、どんなものをイメージしますか。伝統を重んじる堅苦しいもの? 自分の生活とは少し距離を感じるもの? いえいえ、そんなことはありません。最近はデザインやアイデアの力で現代の生活にもなじむ商品がたくさん生み出されています。日々の暮らしの中で、職人の技術や、伝統技法の魅力を感じることができる「新しい伝統工芸品」を選びました。

< 推薦者 >

宮永真実さん

総合領域 講師/プロダクトデザイナー

京都市立芸術大学デザイン科プロダクトデザイン専攻卒業。プロダクトデザイナーとして5年間ヤマハ株式会社に勤務。現在は、プロダクト、グラフィック問わず生活に根ざしたデザインの制作・提案を行う。


Atelier hifumi
「巡-金継ぎ時代-」金継ぎキットとお道具箱のセット(溜塗)/ Kintsugi kit and box (Red brown urushi coating)



佐賀県 伊万里焼のジュエリー
木瓜/Mokkou(YURAI)

日本の伝統技法、産地素材をベースに工芸を新たなプロダクトを展開するブランド「YURAI」。「木瓜/Mokkou」は、佐賀県伊万里の窯元・畑萬陶苑との企画で誕生した、お皿のようなかたちの伊万里焼のジュエリー。アウトラインの細やかな形状と、程よくかかった釉薬のツヤがとても美しい。”神(職人技)は細部に宿る”のだなぁと、しみじみ感じます。


越前和紙を使った石のような箱
harukami [cobble]

まるで本物の石みたいな紙製の小物入れ。福井県越前市で1500年の歴史を持つ越前和紙の技法を用い、木型に貼り付けて成形されているそうです。自然の石が持つ気持ちのいい丸みと、和紙の持つ柔らかで優しい質感が合わさって、見ているだけで癒されます。
(デザイン&写真:松山祥樹)


「木」と「漆」のストロー
/suw(スウ)

脱プラスチックの推進により木製ストローも使われる機会が増えました。衛生面や耐久性といった木製ストローの問題点を、漆を用いることで解決。京都市京北町の木材の端材を使ってストローの土台が生まれ、伝統的な京漆器の漆塗りとが組み合わさり、大切に使いたくなる魅力も生み出しています。現代の日常や価値観に根付いた工芸品になっているのがとても素敵です。
(写真:亀村佳宏、古徳信一)

子どもが自由にお絵描きしたり 集まれる場所を地元につくりたい

INTERVIEW

卒業から4年目

子どもが自由にお絵描きしたり
集まれる場所を地元につくりたい

在学中にインターンシップでお世話になった大阪を拠点に活動する合同会社エデュセンスに就職をした牧野さん。アートイベントや造形教室、ワークショップなど、さまざまな体験を通して子どもたちに表現することの楽しさを伝えている「ピカソプロジェクト」の告知全般とデザイン、ワークショップの講師などを担当しています。子どもが好きという牧野さんが、子どもとアートに関わる仕事に出会った経緯や、仕事での経験を通して見つけた目標など、自分で未来を切り開くヒントを伺いました。

牧野有さん

エデュケーター

1996年、岡山県生まれ。デザイン科の高校を卒業後、成安造形大学総合領域に入学。2017年、合同会社エデュセンスのインターンシップに参加し、2019年に入社。アートイベントやワークショップを通して子どもたちに自由につくる楽しさを伝えている。


一つの分野を極めるのではなく、
いろんなことを学びたかった

Q.01

デザインを学ぼうと思ったきっかけを教えてください。

高校でデザイン科へ進んだのはデザインに特別興味があったとかではなく、家の近くの高校にデザイン科があって、なんか楽しそうだなって。手に職がある人はかっこいいし、自分が普通科で勉強をして大学へ進学するイメージができなかったので、それだったら面白そうな方を選ぼうと思いました。授業は手描きでポスターを描いたり、パソコンを使ってデザインをしたり、いろんなことを学べて楽しかったです。

Q.02

成安を選択したのはどうしてですか?

デザイナーや絵描き、建築家を目指して一つの分野を極めるのではなく、芸術方面でいろんなことを学びたいと思っていました。高校の一つ上の先輩が成安へ進学したのを知って、オープンキャンパスへ行こうと思ったのですが、時期が過ぎていて。ホームページに個別対応もしてくれると書いてあったので、問い合わせをして普段の日にマンツーマンで学内を案内してもらいました。他の芸大のオープンキャンパスにも行ったのですが、こぢんまりとしていて落ち着く感じが良かったのと、高校の延長線でいろんなことを学べる総合領域があったので成安に決めました。


Q.03

総合領域での学びはどうでしたか?

振り返ってもイラストやデザイン、美術などいろんなことを学べて自分に合っていたと思います。総合領域では「出稽古」と呼ばれている他領域の授業を選択できる制度があるので、関心のある分野を横断的に学ぶことができました。一番好きだったのはイラストレーション領域の商品企画の授業で、自分の描いたイラストを使ってお菓子のパッケージやロゴを考えるというもの。もともと海外のかわいいお菓子のパッケージを見たり、イラストを描くことが好きだったので考えている時間が楽しくて。「出稽古」は他の領域の学生とつながることができるので、たくさん刺激をもらいました。

商品企画のパッケージ用に描いたイラスト。中国、フィンランド、メキシコのお菓子をイメージして3パターン制作。


人と何かをつくるのは難しいけれど、
だからこそできることがある


Q.04

合同会社エデュセンスとの出会いから就職までの経緯を教えてください。

出会いは大草真弓先生に将来子ども関係のことがしたいと相談をしたのがきっかけです。エデュセンスの副代表と大草先生が知り合いで、すぐに電話をしてくれたのですが、副代表に教育者向けの子どもとのふれあい講座があるからと誘ってもらい、相談した次の日にさっそく行きました。その流れで3年生の5月くらいからインターンとしてイベントのお手伝いをはじめたのですがめちゃくちゃ楽しくて。これが仕事になったら楽しそうだなって思っていたら、ある日の帰り道に社長からSNSでメッセージが届いて「就職しませんか?」って。二つ返事で「就職します」って返したら、すぐに電話がかかってきて、本当にいいのかって確認されました(笑)。

牧野さんが勤めている大阪市西区の「ひらめきスタジオ」でインタビュー。スタジオにはさまざまな画材や子どもたちの作品がズラリ!「ひらめきスタジオ」は自由な表現を楽しむための工作・アートスペースとして教室やイベントを開催し、牧野さんも講師として活躍している。
Q.05

成安でも子ども向けのワークショップをやっていたと聞きました。

滋賀県と公益財団法人びわ湖芸術文化財団が主催するアートイベント「美の糸口 アートにどぼん!」というイベントで子ども向けのワークショップをやらせてもらいました。その年は滋賀県立美術館の改修で会場が成安になったのですが、秋だったので子どもたちと学内にどんな葉っぱが落ちているか探しにいって、輪っかにした帯状の紙に集めてきた落ち葉をくっつけて帽子にしました。みんなが楽しんでつくってくれてうれしかったです。


Q.06

入社4年目、どのような業務を担当していますか?

イベント現場でワークショップの運営や教室の先生、イベント告知のチラシのデザインなどいろんなことをやらせてもらっています。2020年の年末に開催した「オズの魔法使い」のキッズミュージカルという公演のチラシは、成安の同級生で「出稽古」で仲良くなったメディアデザイン領域(現:情報デザイン領域)の吉田さやかさんにイラストを描いてもらいました。演目が『オズの魔法使い』だったので、イラストを使ってつくりたいと思い、社長と副代表に吉田さんのイラストを見せたら気に入ってもらえて。タイトなスケジュールだったのですが一発OKでかわいいイラストを描いてくれました。卒業しても一緒に仕事ができるのはうれしいですね。

牧野さんがデザインした『オズの魔法使い』の公演チラシ。成安で学んだデザインの経験を活かしながら制作している。
Q.07

ディレクションも牧野さんがされているんですね。

そうですね。演者が衣装を着ている写真を吉田さんに送って、親子で楽しめる演目ということを伝えて、吉田さんのタッチで描いてもらいました。総合領域の授業でプロデューサーみたいにいろんな人と連携をして企画をつくる授業があって、そのときはあまり考えずにやっていたけれど、社会に出て発注する側になると伝え方で仕上がりが変わることを実感して、人に頼むってこういうことなんだなって! 先生が言いたかったのはこういうことだったんだと納得しました。人と何かつくるのは難しいけれど、だからこそできることがあるのを感じます。



Q.08

いろんな人と関わる仕事はコミュニケーションが大切ですよね。

商業施設でワークショップをやるときも、主催者の考え方と私たちの考え方があって、双方で重きを置くところが違うので、話し合いながらいい落とし所を考えるようになりました。まずは集客をしないといけないので、クリスマスならツリーやリースづくりといった王道なものが人気なのですが、それを私たちがどう面白くするかが大事で。エデュセンスの素敵なところは、うまくつくることよりも、子どもがのびのび自由に表現できる手助けをしているところなので、どんな内容のワークショップでも声のかけ方を大切にしています。

Q.09

仕事で一番楽しいのは何をしているときですか?

教室の先生をやっているときです。ピカソプロジェクトが運営している教室が大阪の他に、滋賀県の大津、東京の西新宿、北海道に2つあって、私は月に一回大津の教室で先生をやっています。いつも10人くらいの子どもが参加してくれて、紙をちぎって何ができるか考えたり、木材の切れ端をグルーガンで好きな形に組み立てたり、「この画材や材料を使って自由につくっていいよ」というと、子どもたちはよろこんで創作をはじめます。

Q.10

牧野さんが学生時代にいろんなものをつくっていたからこそ、伝えられることがありますか。

小学校3年生くらいになるとうまくつくりたい欲が出てくるので、親が知らない技法を教えてあげることができたり、自分がつくってきたからこそかけてあげられる言葉があるのを感じます。子どものいいところを見つけて声をかけることが多いのですが、「そこを見てもらえているんだ」って子どもたちはよろこんでくれるので、気付ける人でありたいです。


身近な誰かに相談すると
ラッキーなことがあるかも!?

Q.11

これから成安で学ぶかもしれない学生にアドバイスするなら、何を伝えますか?

とりあえず相談してみる。身近な人に「こんなんやりたいんです」っていうだけで変わることがあると思います。私は先生に相談した次の日にうまいこといって、その流れで就職した口なので(笑)。一人で調べることも大事ですが、誰かに言ってみるのもいいんじゃないかなって。課題のことでも就職のことでも、言ってみるとラッキーなことがあるかもしれないです。

Q.12

牧野さんの今後の目標を教えてください。

エデュセンスの運営に関わるようになってから、子どもが自由にお絵描きをしたり、集まれる場所を地元につくりたいと思うようになりました。在学中から岡山に帰りたいと思っていたので、大阪のスタジオでやっているようなことを岡山でできたら楽しそうですね。


※エデュケーター…合同会社エデュセンスのスタッフの呼称。エデュセンスはエデュケーション(教育)+エンターテイメント(楽しむ)+センス(感性)の造語。「こどもたちの表現をのびやかに引き出す教育」を推進することを目的に、全国のイベントや教室で子どもたちを笑顔にする活動を行っている。





滋賀県の魅力が感じられる日常の風景3選

CULTURE NOTE

滋賀県の魅力が感じられる
日常の風景3選

地域の魅力をさまざまな方法で日々探していると、そこにしかない風習や言葉、モノ、食、暮らしが溢れ出てきます。それは自身の考え方を変革させ、新しい創作に繋がります。滋賀県は琵琶湖を中心に四方を山に囲まれた環境。自転車で湖岸や林道を走ることで、そのことを再認識し、色々な感覚が呼び起こされ、創作意欲を駆り立ててくれます。そして、日々の生活と素材が重なったとき、なにか作品のようなものが生まれる可能性があります。

< 推薦者 >

石川 亮さん

地域実践領域 共通教育センター 准教授 /美術家/附属近江学研究所 研究員

2021年、『Soft Territory かかわりのあわい』(滋賀県立美術館)関連展示にて、地域実践領域から滋賀県の特色や潜在能力を表した《MUSUBU地図 vol.3》を発表。近年、宗教民俗学者や環境システム工学研究者との共同研究に取組み、美術表現の新たな可能性を模索している。


全体-水(近江の水源)2012〜
滋賀県の約120箇所に点在する湧水を一つに集める装置作品。球形に凍らした湧水は、地図の位置関係と合うように配置しています。ひとつ一つに名前のある氷の湧水はゆっくりと溶け、やがて混ざり合い、台からあふれだします。下の水槽に流れて溜まり、ひとつの名も無い水となります。湧水を汲みに行くことから始まり、ひとつの水になるまでの様子を見届ける作品です。



仰木から坂本へ抜ける林道

大学のある仰木地区から比叡山の裾野に通る林道を自転車で走り抜けます。澄んだ空気をたっぷり吸い込むなか、風が吹き、木々の揺らめきを感じながら無心でペダルを踏むと、日頃のモヤモヤなどが一気に吹き飛びます。ここを抜けると西教寺や日吉大社に抜け、日本の歴史の大舞台を感じることができます。


棚田、道、山

仰木地区の神社をお参りしたあとは、棚田の風景を横目に、長い下り坂を進む道へ。遠方に見える比良山系を仰ぎながら隣の集落の神社まで一気に駆け降ります。時々、この風景に虹がかかることがあり、季節によって色とりどりの風景を楽しむことができます。


琵琶湖と自転車

旧街道から湖岸に出ると所々に休憩のできる公園があります。ここで石に腰掛けて、琵琶湖と愛車を眺めながら途中で買ってきた手作りパンを食べるのが好きです。目の前の琵琶湖はいつも違う表情を見せてくれ、自分のなかの“何か”を呼び覚ませます。走ること、食べること、景色を眺めることは新しいことを思いつくきっかけになり、来るべき新しい社会を想像させます。

ゲームの制作現場で活きる、 学生時代の予期せぬ出会いと経験

INTERVIEW

卒業から6年目

ゲームの制作現場で活きる、
学生時代の予期せぬ出会いと経験

卒業して3年後には独立し、現在はフリーランスのゲームデザイナーとして活躍する小野裕貴さん。話を伺うと、漫画家を志して入学し、制作漬けの日々を送るつもりが、想像もしていなかった学生生活になったよう――。しかし、現在の仕事の源流を辿っていくと、在学中も卒業後も”流れ”に身を任せてきた、小野さんのしなやかさに秘密があったようです。

小野裕貴さん

ゲームグラフィッカー

1993年高知県生まれ。2016年にイラストレーション領域を卒業後、オンラインゲームの会社に就職。転職を経て、2019年に独立。フリーランスのデザイナーとして、主にスマホゲームのグラフィック・演出を手掛ける。また、SNSでは個人制作のゲームなども発信している。

>Twitter:@imo_dekai


成り行きで飛び込んだゲーム業界。
あれよあれよと”バイプレーヤー”に

フリーランスのゲームグラフィッカーとして、都内にスタジオを構え、制作を行う小野裕貴さん。グラフィッカーとは、ゲームのキャラクターや背景、アニメーションなど、グラフィック全般のアートディレクションと制作を担う仕事。加えて小野さんは、キャラクターデザインや演出も手掛ける“バイプレーヤー”でもあります。


スマホゲームのグラフィックや演出を手掛ける小野さん。
街づくりパズルゲーム「コビトタウン-かわいいコビトとまちづくりゲーム」もそのひとつ。
(リリース日:2021年10月18日/配信元:ふんどしパレード)


卒業年の2016年にゲーム業界に足を踏み入れ、わずか3年で独立。これまで多くのスマホゲームを手掛けてきた小野さんですが、実はゲーム業界に就職したのは“成り行き”だったと言います。
「自分は、漫画家になりたくて成安造形大学に入学したんです。学生のときはデジタルで絵を描いていませんでしたし、就職活動をするつもりもありませんでした。でも、進級制作展で美大生の就活サイトを手掛けている方に声をかけてもらって、勧められるままにポートフォリオや履歴書を出していたら、ぬるっと採用が決まったんです(笑)」


新卒でゲーム会社に入社すると、「UI(ユーザーインターフェイス)デザイン」の部署に配属された小野さん。「UIデザイン」とは、Webサイトやゲームなどでユーザーが操作に迷わないように画面をデザインすること。デザインではなく、絵が描きたかった小野さんは戸惑います。
「当時は『UIって何?』というレベルでしたし、UIデザインは成安造形大学でいうと、イラストレーション領域よりもメディアデザイン領域(現:情報デザイン領域)で学ぶ分野なので、自分としては正直不本意でした。ただ、UIデザインの部署に配属されながらも上司に『絵が描きたいんですよね』と言っていたら、ちょこちょこキャラクターの仕事もやらせてもらえるようになったんです。新卒にはいろんなことを経験させたい、という会社の方針もあって、UI、キャラクターデザイン、モーション(キャラクターを動かすアニメーション)など、結果的に1年間で5回、部署を異動しました。それが功を奏して、いろんなことができるようになりました」


 分業が基本のゲーム制作の現場。そのなかで複数の職種を経験できたことが、小野さんの今に繋がっています。
「例えば、キャラクターデザインはモーションのことを考えてデザインしないといけない部分があったり、モーションはエフェクトのことを考えて動きをつけなきゃいけない部分があったりします。それぞれ別の人がつくるので、キャラクターデザイン優先でつくってしまってモーションに制限が出てしまうことや、その逆も経験しました。ほかの職種の仕事を理解しているほうがより良いものができると、そのとき実感したんです」


小野さんがレイアウト、演出、イラストを担当したスマホゲーム「バズーカ・ロワイヤル」
(リリース日:2021年9月6日/発売元:ふんどしパレード)


 1年間に約200万本のアプリがリリースされるほど、スマートフォンの普及とともに急拡大したスマホゲーム市場。業界の新陳代謝は激しく、入社すると3年目あたりからベテラン扱いとなり、新入社員を指導する立場になるのだそう。
「割と早い段階でキャリアアップさせてもらい、入社2年目からリーダー職を担っていました。1年目でひと通りの制作に携われたおかげで、できることも増え、画面全体のトータルデザインを手掛けながら、背景はこの人に、エフェクトはこの人にお願いしようと、ディレクションを行うようになっていました。実は今やっている仕事もあまり変わらなくて、当時経験したことの“お釣り”でやってきているような気がします」

経験値をためて独立。
自分の働きやすい環境をつくる

 就職した会社で順調にキャリアを積んでいた小野さんですが、入社3年目あたりから少し風向きが変わりはじめます。
「3年目に入った頃から、自分が手を動かすことよりも管理や調整をする役割が増えてきたんですね。けれど、まだディレクターという役職ではなかったりして、ジレンマを抱えていました。そんなときに『もともと絵が描きたかったんだよな』と思い出して、絵を描いて、自分発信でものづくりができる環境でキャリアアップしたいと、転職活動をはじめました。そうしたら大手の会社にイラストレーターとして採用が決まり、転職しました」



 念願だった絵を描く仕事。しかし、小野さんが新しい環境に踏み出したきっかけは「絵を描きたい」「自分発信でものづくりをしたい」「キャリアアップしたい」この3つ。自分の絵は世に出るけれど、ディレクションには関われない、規模の大きな会社ではライバルも多くキャリアアップは簡単ではない……。身を置く環境を冷静に分析した小野さんは、悩みます。
「絵を描くことは楽しいけれど、キャリアアップを考えたときに『これをあと何年やれば行きたい場所にたどり着けるのだろうか』と思ったんです。それはもう、絵が描けなくなるくらい悩みました。そんなときに、まだ退会していなかった転職サイトをのぞいてみたら、大手の会社での勤務経験があるというだけで、結構なオファーが来たんです。また、キャラクターデザイナーはたくさんいますが、求人数の割にUIデザイナーの数はすごく少ないというのもオファーがきた理由のひとつ。キャラクターデザイナーの転職は難しいと思いますが、UIデザイナーの実務経験が3年くらいあれば、おそらく転職には困らないように思います」


 2回目の転職先で、ゲームの企画から携わるようになった小野さん。「自分発信でものづくりをしたい」という想いはここで叶えられ、残すは「キャリアアップ」です。
「当時はすごくキャリアに囚われていたというか、結婚の予定もあったので『どうお金を稼ぐか』を考えていて、SNSで仕事のオファーをいただいて副業をはじめたんです。そうしたら、副業が本業になるくらいの忙しさになってきたので独立することにしました」


作業部屋のほかに、スタッフ2名が生活する部屋もある小野さんのスタジオ。「宇宙」をテーマにした空間は、物件を決めたときに描いたイメージ通り。家具の配置は、3Dで綿密にシュミレーションして決めたという。


 独立後に構えた小野さんのスタジオには、2名のスタッフがおり、彼らは成安造形大学の後輩にあたります。ひとりは在学中に小野さんとシェアハウスで暮らしており、もうひとりは2021年に卒業したばかり。ゲームの制作経験がない2人ですが、小野さんが教えながら一緒に制作をしています。
「この業界は万年人材不足なので、将来的なことを考えるとプロジェクト単位で人を雇うよりも、できる人材を育てるほうがいいと考えているんです。働く時間は、割と自由にしていて、勤務時間もとくに決めていません。やるべきことをきちんと達成できれば良いので」



“思い描いていなかった”ことから
学んだ学生時代

 在学中の4年間、大学祭実行委員会や学生会に関わっていた小野さんは、年齢も領域も超えて多くの卒業生とのつながりを持っており、今も一緒に仕事をすることがあるそう。
「高校生の頃は文化祭も体育祭も、絶対中心に入らないようにしているタイプでした。なので、大学入学後も友達をつくらず、4年間ずっと絵を描いて腕を上げ、漫画家になるイメージを持っていたのですが、実際はまったく違う学生生活でしたね(笑)。入学式で新入生代表挨拶をすることになり、その準備をしているときに当時の学生会会長に誘われて、1年生の頃から大学祭実行委員会に参加したんです。それを機に先輩や後輩と接する機会がたくさんできました。その上、シェアハウスで生活していたので、学生時代はわちゃわちゃしていました」



 シェアハウスのきっかけは某人気恋愛リアリティー番組。
「友達と『テラスハウス』を見て、あのキラキラした感じに憧れて(笑)。あと、アルバイトに時間を費やしたくなかったので、生活に必要なお金を抑えたかったんですよね。本当にノリなんですけど、周りの人に話していたら気がつけば物件が決まって。2年生の3月くらいからシェアハウス生活がはじまりました。和室だし、住人は全員男だし、その上半分以上が一人暮らし未経験だったからたくさん揉め事もあったし、現実はまったくキラキラしていませんでしたけど。でも、家賃6万円くらいのところに5人で住んでいたので、光熱費を入れても家賃はひとり約2万円に抑えられていました」


当時のシェアハウスの様子


 学生時代を振り返り、「これまでの人生のなかでは大きな岐路だった」と話す小野さん。ものづくりの基礎や考え方は授業で、人との関わり方やチームビルディングは大学祭実行委員会、学生会、シェアハウスや似顔絵のアルバイトから得てきました。
「高校生の頃に考えていたように、クリエイティブなことだけに集中した学生生活をおくっていたら、今の仕事はできなかったと思います。いろんな人をつなぎ、まとめるという意味では、学生時代も今も、やっていることは変わらないですね。想像していたビジョンとは違ったけれど、結果的に良かったと思います」

「ねばならぬ」からの開放。
方向転換、軌道修正は自由自在

 大学生時代も卒業後も、「何か」に固執せずに流れに身を任せたからこそ、自分が想像する以上の出会いや経験を得てきた小野さん。ただ、学生時代には、周囲が個人の制作に集中するなかで、学生会や大学祭、サークルの立ち上げに走り回っていたことに劣等感もあったと言います。
「クリエイティブ以外のことばかりやっているな、という劣等感みたいなものはありました。やっていることは楽しいし、無駄とも思わないけれど、まわりと比べるとちょっと不安というか。でも、当時の自分に声をかけてあげるとしたら『不安に思うことはないよ』と言ってあげたいですね。今でもつきまとっている感情ではありますが、でも、そこまで不安に思うことではない。中途半端でも、全部使えるものになっていたら、最終的に仕事に結びついていく。まぁ、こんなことを言っても、当時の自分には無視されそうな気がしますけどね(笑)」


小野さんが卒業制作で発表した漫画『危機危険なこの世ナウ』


 小野さんは卒業制作の作品を漫画投稿サービス「ジャンプルーキー!」に投稿し、編集部からも「一緒に漫画をつくりましょう」とコンタクトがありましたが、その頃は就職先も決まっており、入社後は仕事が忙しくなったため、その話は立ち消えました。しかし、小野さんは”漫画を描きたい”という欲求を手放したわけではありません。
「ゲームもつくりたいし、漫画も描きたい。そのあたりは割とふわっとしています。流れに任せて生きてきた自分の経験から、『思い描いていた生き方と違う』とか『目標を達成できない』ということに、必要以上に不安がらなくてもいいんじゃないかと。自分自身が、できること・やりたいことでしか動けない人間なので、そこをガチガチに固めてしまうと動けなくなるんです。『どうとでもなるやん』くらいの、ゆるい心持ちでいるほうが、なんだかラクでいられると思います」


手探りながらも運営したオンラインイベント。未知の世界から新たな可能性が広がりました

NOW SEIAN
ライフスタイル編

手探りながらも運営したオンラインイベント
未知の世界から新たな可能性が広がりました

江藤小梅さん (イラストレーション領域 メディアイラストコース 4年生(当時))
堺俊輔さん (情報デザイン領域 写真コース 3年生(当時))

世界的な新型コロナウィルス感染症の流行から、私たちの行動や思考にさまざまな変化が起こった昨今。
大学でも、オンライン授業の開始や教室環境の改善、状況に応じた学内活動の制限など、政府や自治体の方針に基づいた対応を行なってきました。
このような状況下でも、オンライン上でイベントを企画、開催した学生2名にお話を伺いました!


※2021年に取材した記事です。取材時は感染症拡大防止の措置を取りながら、取材・撮影を行っています。
※この取材は取材時にはパーテーションの設置やマスク着用を行い、撮影時のみマスクを外して行われています。



仲間と一緒に楽しみながら生み出した
成安初のオンライン学生交流会

2020年2月末。新型コロナウィルス感染症拡大の影響で大学は入構禁止となり、それまで当たり前のように制作活動をしていた学生たちの姿は、学内から消えてしまいました。4月の入学式や先輩たちが後輩を温かく迎え入れる新入生歓迎会も、密を回避するために中止という状況の中、情報デザイン領域・写真コース2年生(当時)の堺俊輔くんは、2020年5月に『オンライン学生交流会』を開催しました。

「いつも仲のいい友達と『何か面白いことしたいよね』と話をしていて。そうしていると、先生や職員の方からオンライン上でのイベントの話が出るなど、いくつかの偶然が重なって。それなら、新入生歓迎会も兼ねたオンラインイベントを開催しよう!となりました」。具体的に準備を始めたのは、開催1ヶ月前の4月頃から。仲間たちと一緒に、それぞれが得意な分野を活かしながら準備を進めていき、イベントを企画したそうです。「その頃、1年生の授業をサポートするスチューデントアシスタント(SA)もやっていたので、新入生への告知はスムーズにできました」。とはいえ、オンライン上でのイベント企画は初めて。すべてが未知で手探り状態なうえ、オンライン上の空間でたくさんの人と交流するという感覚が根付いていない状況での開催に、どれぐらい参加があるか不安だったそうです。

「友達や職員さん、先生方も積極的に参加してくれて、楽しく運営できました。ほとんどがノリと勢いで進めていたかもしれないけど、そのお陰で企画から実行までノンストップで行けた気がします(笑)」と笑いながら語る堺くん。

では、具体的にどんなイベントを企画したのでしょう──。
「ビデオチャットツールを活用し、オンライン上に成安のキャンパスを再現した仮想空間を作りました。サークルやいろんなテーマの小部屋をつくり、参加してくださる職員さんや先生たちはいつも居る場所にいてもらい、参加者は各部屋に自由に入室して、中の人たちとビデオチャットで会話ができる仕組みです」。イベントは5月12日〜14日の3日間開催し、新入生だけでなく上級生の参加もあり、のべ100人以上が来場してくれたとのこと。「後から知ったのですが、実際に対面授業が開始されてから『あのイベントで一度話せてたからすぐに仲良くなれた』と言う話を後輩から聞けたのは、一番嬉しかったです」。

このイベントの成功から、8月1日には『夜のセイアン・ウォッチング』というオンラインイベントでも企画を任されることに。「職員さんから声を掛けていただいたんですが、なかなか企画が通らなくて(苦笑)。本当にしょーもないものも含めて500以上の企画を友達と出し合い、なんとか『作品展示の搬入の様子を配信する』という企画が通りました」と、笑いながら語る堺くん。いろいろと反省点はあるものの、みてくれた人からは「良かった」と言う反応がもらえたり、作品を展示してくれた作家さんからも学ぶことが多く、良い体験ができたという実感を持てたそうです。

「remo」と言うツールを活用し、実際に開催された『オンライン学生交流会』の画面。上から見た大学構内を再現し、実際に大学を歩いているような感覚で各部屋を回れるようにこだわっている。


行動制限がある今だからこそ
“活動する”ことに意味がある

一方、新型コロナウィルス感染症拡大の影響から、2020年度の大学祭は中止が決定。全国的にも悔しい思いをした学生たちが多くいる中、成安造形大学では7月頃から大学祭の代わりとなるオンラインイベント『成安フェス』の準備が進められいました。このイベントの企画・運営を担ったのは、イラストレーション領域・メディアイラストコース4年生(当時)の江藤小梅さん。彼女は、2019年度に学生会のメンバーとして活躍し、前年度の大学祭実行委員の経験もありました。

この頃、大学では対面での課外活動が原則禁止とされ、同好会の活動もできない状況下にありました。新入部員の勧誘もできず湿った空気感のある中、江藤さんは、同好会がメインとなれる企画を立案。全ての同好会に連絡を取り『成安フェス』への参加を促しました。「同好会の活動が滞っている中、活動することに意義を見出してほしかったこともあり、どんなイベントを開催するかという内容や、集客等の告知も含めて全てお任せしました。開催日までに動画作品を作って参加した同好会もあれば、ウェブツールを使って参加型のワークショップを開催してくれるところも。実際にイベントがしにくい同好会もあるので、そういったところは紹介のためのホームページを制作してくれたりと、さまざまな方法で参加してくれました」。20前後ある同好会のうち、ほとんどの同好会が参加してくれたそうです。

大学祭実行委員の大変さを知っていたからこそ、最初はあまり乗り気ではなかったそう。しかし、「こんな事やったら絶対に面白いよ!」と教えていただいた先生のテンションや友人の後押しもあり、『成安フェス』をやってみようと前向きになれたそうです。

全ての同好会との調整や、イベントのプラットフォームとなるホームページの制作など、運営の仕事は1人で行ったと語る江藤さん。「できる部分は全部1人でやってみたいと思っていて。とは言え、先生や友人に相談することはありました。特に先生からのアドバイスや励ましはガソリンになりました」。彼女自身、全ての同好会の活動を把握している訳ではなく、全員が「はじめまして」の状態からのスタート。加えて、元々コミュニケーションに苦手意識を持ちイベント開催にも不安を感じていたけれど、積極的にコミュニケーションを重ねていくことでスムーズに準備を進める事ができたそうです。

3ヶ月の準備期間を経て、2020年10月、毎週土日の計9日間に渡り『成安フェス』は開催。各同好会も行動制限がある中でも、工夫を凝らしながら準備を整えてくれました。「このイベントに個人で参加してくださった方がいたり、企画を見てお家でハンドメイドしてみたと言う報告を貰ったり。同好会からも好評で、このイベントで開催した企画を同好会の中でもリポートしたことなど、たくさんの嬉しい報告をいただきました。何より私自身、全ての同好会のイベントに参加したので、一番楽しんでいたと思います(笑)」。

各同好会の紹介はもちろん、Zoomを活用した悩みや不安に応える「せいあんふあんかいとうひろば」や「似顔絵絵しりとり」など、リアルタイムで参加できるイベントや、お家でも楽しめる動画コンテンツを公開するなど、さまざまなイベント企画が集結しました。


変化をプラスに捉えることで、
制作の幅は広がっていく

初めこそ未知の世界だったものの、インターネットを活用したコミュニケーションやイベントの企画運営は、デジタルネイティブ世代の2人にとってはなんなく活用でき、実践の中で不便さも感じられなかったそうです。

「対面じゃないと嫌だなぁ。不便だなぁ。と言う感覚は全くなかったです。元々そんなに人と積極的に話すタイプではなかったのもありますが(苦笑)。でも、今回のイベントの運営を通して、普段あまり話さないタイプの人や喋りかけるのに勇気が必要な方にもすんなり話しかける事ができ、新たな体験をさせてもらった気がします」と、江藤さん。イベント開催という一つの目標達成に向けて、コミュニケーションへの苦手意識を払拭できたと話してくれました。

「僕の中では、オンラインとリアルな環境の区別が明確になりました。コロナ以前では、オンラインとリアルの境界線が曖昧だったけど、今は、オンラインでの対話はリアルな対話の代替にはならないと思っています。それぞれに良さがある。特徴を理解して使い分けると楽しめるし、貴重な体験ができます。僕にとってコロナ禍は悪いことばかりではなかったです」と、現代を肯定的に捉えている堺くん。仮想空間を介することで生まれる気持ちの変化を自身の中で感じ取り、上手にツールを使い分けながら今も作品制作に活かしているそうです。

大きな生活様式の変化にも怯む事なく、新たなコミュニケーションや作品制作のカタチを生み出しながら“今”を生きる。大切なのは、どう変わったのかを悲観するのではなく、変化を受け入れながら最大限に楽しむこと。今の時代を生きる学生にとって、クリエイションの可能性は無限大に広がっているのかもしれません。


PROFILE DATA


江藤 小梅さん 
イラストレーション領域・メディアイラストコース4年生(当時)
幼い頃から絵を描き、本の挿絵や印刷向きのイラストを勉強中。作品では、身近な悩みや気持ちを代弁してくれるような女の子のイラストを描いている。


堺 俊輔くん 
情報デザイン領域・写真コース3年生(当時)
美術系高校時代の専攻がきっかけで写真に出会い、写真を使った作品制作を行う。面白いと思えることにはジャンルの垣根を超えて興味を持ち、自身の制作にも生かしている。

セイアンアーツアテンション14「Re:Home」レポート 後編

REPORT

【キャンパスが美術館】展覧会レポート

学び舎の軌跡を振り返りその先の未来を想う
セイアンアーツアテンション14「Re:Home」
後編

開学当時の歴史を理解しながら展覧会を楽しむ

成安造形大学の歴史は、1920年(大正9年)に創立された成安裁縫学校が始まりです。創設者の瀬尾チカさんは、裁縫技術を身につけることで女性の自立を促し、広く社会で活躍できる人材の育成に取り組みました。
この頃の日本は和装が主流でしたが、1920年頃から洋服を着用するモダンボーイ・モダンガール(通称:モボ・モガ)が現れ始めます。同時に、男性中心の世界から女性が新たなライフスタイルを見つけ出すという時代の中にいました。「家」という枠組みに捉われない、新しい女性像を広める挑戦です。

後編では、大学が歩んできた100年の歴史とコスチュームデザインコースOB・OGによる展示レポートです。「母校=家」、また、衣服を人を環境から守る一番小さな「家」と考えると、新たな視点が生み出されるのではないでしょうか。

モボ・モダ時代に活躍した
学祖の想いが現代に活きる



京都の夏は、今も昔も変わらず暑さが厳しい。今でこそ半袖・ノーネクタイのクールビズが当たり前になりましたが、当時の洋装は、ジャケットにネクタイが基本の時代でした。
そんな中、ジャケットを脱ぎ捨てネクタイを外し、襟元を開けた「開襟シャツ」を普及させる運動がスタート。京都では「京都開襟クラブ」が結成され、成安女子学院は開襟シャツのパターン(服の設計図)の考案と受注製作を行なっていました。

このような背景を記録した「京都成安女子学園60年史」には、開襟シャツのパターンが残されていました。
この当時と同じパターンを使い、学生達が新たな感性を加えて復元した開襟シャツを制作し、「百年後も思ふ。」と題された色とりどりの開襟シャツは、スパイラルギャラリーの2Fに展示されました。

シャツのそばには、プロジェクトに参加した学生達の言葉。2mの布を無駄なく設計されたパターンから、資源を無駄にしない当時の考え方を理解し、ドキュメンタリー映像からも参加した一人ひとりが学祖の想いを受け継ぎ挑戦したことが伺えました。



学び舎から巣立ち、
社会で活躍するOB・OGたち

「開襟シャツ」が展示されるスパイラルギャラリーには、卒業生である明石麻里子さん、谷藤百音さん、佐々きみ菜さん(3名ともコスチュームデザインコース卒業生)の作品も展示されました。
3名は、布を裁断して縫うのではなく、オーガンジーをあぶる、グルーガンで描く、モールを繋ぎ合わせるなど、それぞれの手法でテキスタイルを生み出し、服飾やオブジェ作品を制作。小さな素材を繋ぎ合わせて作られた作品は、完成までにどのくらいの時間が費やされたのでしょう。コツコツと積み重ねることで完成した美しい作品は、私たちの日常にある小さな営みの尊さを感じさせてくれるようにも思いました。


久保李緒さん

内野菜摘さん

河原林美知子さん

小角綾さん

加藤沙知さん

梅林夕乃さん

大野知英さん


カフェテリア結では、ビニールや金属、紙、ゴミ処理される予定だった布の端や糸くず、髪の毛といった、服には使われない素材を使用した作品が集められ、梅林夕乃さん、大野知英さん、河原林美知子さん、久保李緒さん、内野菜摘さん、小角綾さん、加藤沙知さんの卒業生、教員7名による作品が展示されていました。



会場の一角には、コスチュームデザインコースの活動を発信するファッションサークル『美菖蒲』が制作したスライドも。通常、展示やファッションショーで見ることしかできない作品を試着してもらうというコンセプトで、2枚のスクリーンの間に立つと映像で衣装を試着できる仕組みです。試着した自分の姿は、鏡で確認することもできました。

開襟シャツの展示構成やドキュメンタリー映像、後述するギャラリーウィンドウの写真や動画制作を行なったのも同じサークルです。今年5月に結成されたばかりのサークルですが、フリーペーパーの発行やファッションショー『SEIAN COLLECTION』にも関わる予定で、今後の活躍に期待です。



ギャラリーウィンドウは、個展形式で展示された岩﨑萌森さんの作品。織る・編む・結ぶというテキスタイル(布)の基本動作を連続し、ミシンや型紙などは一切使用せず、麻糸と細く切られたポリエステル素材を手作業で編んでいくことで作られています。壁面に飾られた《制限と可能性》、窓際の《反と角》は、コロナ禍のステイホーム中に木枠機(編むための枠)を身の回りにあるもので自作するところから始めた作品。制限がかかる中でも制作を止めず、新たな可能性を切り開いた彼女の作品から、美しさだけでなく力強さと温もりも感じました。



最後に忘れてはいけないのが、バスストップギャラリー。京都成安学園が歩んできた100年の道のりが、年表やアーカイブ動画にまとめられ紹介されました。なかでも長岡京にキャンパスがあった時代、平安神宮や建仁寺などの文化的価値が高い場所でファッションショーが行われている映像は衝撃を覚えました。過去の歩みを参考に、この先100年の秘められた学び舎の可能性を想像すると、未来がより一層楽しみになります。

前半へもどる

セイアンアーツアテンション14「Re:Home」レポート 前編

REPORT

【キャンパスが美術館】展覧会レポート

私たちの生活を支える「家」を多面的に考える
セイアンアーツアテンション14「Re:Home」
前編

「セイアンアーツアテンション」って何?

「芸術大学のキャンパス=美術館」という発想から、成安造形大学の回遊式美術館『キャンパスが美術館』が定期的に企画運営している総合芸術祭です。毎年、現代において注目すべきテーマを設定し、キャンパス全体を活用しながらアートやデザインの作品展示が行われ、学内を歩きまわりながら作品を楽しむことができます。
15回目を迎えるセイアンアーツアテンションは「Re:Home」。学園創立100周年記念事業の一つとして開催され、私たちの生活を支える「家」をさまざまな角度から見つめる展覧会となりました。

ミノムシと一緒に作られた
色鮮やかな「Home」



ギャラリーアートサイトに展示されたAKI INOMATAさんの作品は、ミノムシとミノ(巣)が主役となります。
入り口近くに飾られている標本画はミノムシの生態が表されており、オスはミノ蛾、メスは白い成虫となる成長の過程が描かれています。
ブランド服のお店のように美しく飾られた写真や洋服、花瓶に生けられた抜け殻のミノ。それらと向かい合わせるように置かれた鏡に映るミノは、まるで試着した洋服を確認する女性のようにも見えます。また、映像作品の中には、実際にミノムシがペレットの中で小さな布を寄せ集め、ミノを作る様子も上映されていました。
自ら吐き出した糸でハギレを重ね合わせミノを作るミノムシの姿は、おしゃれをする女性のような愛らしさも感じられました。

「故郷=家」の自然や
信仰をモチーフに描かれる抽象絵画



ギャラリーキューブに作品を展示するのは、故郷である三重県伊賀市島ヶ原で活動をする岩名泰岳(洋画クラス卒業生)さん。
ご自身が描く絵画作品だけでなく、絵画の基となるエピソードや島ヶ原で発見された絵ハガキや文章など、さまざまな資料が展示されていました。
また、ギャラリーの奥には、2013年に地元の方と結成した芸術集団<蜜ノ木>の最初の看板がありました。これと同じような形をした看板がギャラリーの外にも5枚展示されていました。しかし、ギャラリー内に展示された看板とは制作者が違い、この5枚の看板は、新たな移住者や外部の関係者がこの展覧会のために新しく制作したものでした。
時間とともに関わる人々も移り変わり、変化してゆくコミュニティの中で、さまざまな出来事があったことを想像できます。

母と娘の関係や
住宅の一部から垣間見る「Home」



開放感あるライトギャラリーには、2名の作家さんの作品が展示されました。
入口すぐは、松井沙都子さん。壁・床・光を組み合わせ、住まいのイメージを浮かび上がらせるインスタレーション作品です。
松井さんの作品には、住宅によく使われる材料の中でも、比較的安く、大量に作られ、全国的に使われている材料が使用されています。大きな作品ですが、実際に近くで見ると壁紙もカーペットもどこか見覚えがあるものばかり。例えそれが自分の家で使われていなかったとしても、誰かの家やどこかの施設で使われていた思い出と重なり、どこか懐かしさのようなものを感じられるはずです。作品は室内の一部が切り取られたものですが、観る人が空間やさまざまな風景を想像できるように制作されているそうです。



同じギャラリーの奥には、ふなだかよ(ファイバーアートクラス卒業生)さんの写真作品が見られました。
正面に展示された右側2枚の写真は、母親からの愛情を料理に例え、お皿からこぼれ落ちるほどでないと不安だった作者の心理が表現されています。左側2枚の写真は、母親が大切に育てた満開の花を全て切り、生け花にしたもの。「娘の為なら…」と大切なものを差し出す母親の本心は本人にしかわかりませんが、美しい花には愛情の美しさと切なさが映し出されているのかもしれません。
また、奥の壁面には、ふなださん自身が母親となり、生まれてきた娘が成長して使わなくなったアイテムを落下させて撮影された写真。よく見ると哺乳瓶などのカタチが見えてきます。成長の喜びとともに、失われていくことや忘れてゆく喪失感を表現しているそうです。

ギャラリー全体を見渡すと、とても広い「家」の壁に美しい写真が飾られているかのようにも感じます。しかし、作品の意図をくみとると、表面的な美しさとは正反対の生々しくてリアルな人間の感情や生活も見えてきて、この空間自体が現代の「家」のようにも感じられます。太陽が傾く頃、ギャラリーへと差し込む光が作品を照らし、より一層、不思議な感覚を覚えました。

後半へつづく

経験やご縁を大切にしながら、どんな状況下でも絵を描き続ける

INTERVIEW

卒業から23年目

経験やご縁を大切にしながら、
どんな状況下でも絵を描き続ける

地元である京都府亀岡市で絵画を中心に、彫刻や版画、オブジェなどの作品を制作しながら絵画教室『のびなびあーと』を営むベリーマキコさん。
自分の中に湧き上がってくるものを絵で表現している彼女の原点は、生まれ育った里山での生活にあると話します。大学で日本画を学び、経験やご縁を自分の表現に変えながら日々の営みの一つとして絵を描き続ける、生きる力にあふれた作家のお話です。

ベリーマキコさん

画家

1975年京都府亀岡市生まれ。1998年成安造形大学造形美術科日本画クラス卒業。同年、同クラス研究生に。修了後、米国メトロポリタン美術館(ニューヨーク)の東洋美術修復室に勤務。2008年に帰国し、翌年には幼児から高校生の感性を磨く『のびなびあーと』を開講。2012年「第四回 京都 日本画新展」大賞受賞。京都日本画家協会会員。


日本の生活に違和感を
感じていた学生時代

大学卒業後、毎年展示を行っているベリーさん。取材時も今治市大三島美術館で2021年8月7日(土)〜12月26日(日)まで開催の企画展『ベリーマキコ・石橋志郎 ふたりの視点 Their point of view from KYOTO』の最中でした。



[写真1枚目]企画展『ベリーマキコ・石橋志郎 ふたりの視点 Their point of view from KYOTO』より。《響》(2021年/182.5×568cm/岩絵具、水干絵具、墨、膠、準雲肌麻紙/撮影:麥生田兵吾)。ベリーさんの父の故郷である大三島と自身が生活をした亀岡とアメリカの風景を融合し、6枚のパネルに描いた歴代一番の大作。「父の生まれた大三島で展示ができ、親戚にも作品を見てもらえてうれしいです」[写真2枚目]作品部分。

 おもに日本画材を用いた絵画を制作しているベリーさんの描き方はとてもユニークです。6枚のパネルからなる《響》は、1枚ずつ天地をひっくり返したり、全パネルを180度回して描きながら進めていったといいます。作品完成の1週間前まで天地は逆で描いていたそうです。

 「コントロールが効いたものがあまり好きではないので、つまらなくなっているところはないかを探しながら描いています。絵の具やお水などが自分の手を離れてどう表現してくれるのかを大事にしていて、お水に絵の具が広がって偶然できたおもしろいところを見つけて絵にしていきます。後は、あえてうまく線を引かないために長い筆を使ったりもするのですが、線から刺激を受けて手が進むので、そうすると絵と対話をしているような感覚になります」


[写真1枚目]自作の筆を使って描くベリーさん(写真/清水泰人)。[写真2枚目]アトリエにはさまざまな長さの筆が並んでいる。「長い筆を使って描くのは私くらいだと思っていたら、知人が(アンリ・)マティスも使っていたと教えてくれました」

日本画という枠にとらわれない自由な作風の背景には、里山で育った幼少期の体験と成安造形大学の先生からもらった言葉にあると言います。
「絵は小さいときから描いていて、日本画の絵の具をつくるときのように川や山で石を砕いて遊んでいました。自然を謳歌していた子どものときの経験や感触が今も制作に大きく影響しています」
大人になった今も子どもの時の感覚を持ち続けることは難しい。大抵は経験を重ねて行くなかでアップデートされていくけれど、ベリーさんは子どもの頃と同じように、身近にある日常の暮らしを真摯な眼差しで見つめています。


[写真1枚目]《黙坐》(1998年/180×276.3cm/岩絵具、水干絵具、墨、アルミ箔、膠、雲肌麻紙)。成安の卒業制作ではベリーさんの原風景である家の近くに盛ってあった土の塊と田んぼを描いた。[写真2枚目]左《エスカレーターの日々》(1999年/183×71cm/岩絵具、水干絵具、墨、膠、雲肌麻紙)。右《回転寿司》(1998年/113.5×53cm/岩絵具、水干絵具、墨、膠、雲肌麻紙)。

 自然と絵が大好きだったベリーさんは、亀岡高校の普通科美術・工芸専攻を卒業し、成安造形大学の日本画クラスへ進学。大学時代の作品を振り返ると「今見ても暗い絵ですね。明るく抜けている感じではない」と語ります。

琵琶湖の風景を愛でながら大学生活を満喫していたけれど、日本という国に違和感を感じていた学生時代。一人旅をした東南アジアの生活を肌で感じたことで、苦労することなく生活できることへの沸々とした思いが色彩に表れているのがうかがえます。

「エスカレーターをよく描いていました。乗ったら勝手に運ばれていくことに日本のおもしろくなさを感じていたんですよね。回転寿司もお寿司がレーンで運ばれて同じところをぐるぐる回るところや、お店の人としゃべらずに食べられてしまうことにも違和感がありました」

人間臭いものが好きだというベリーさんには、便利であるそれらが豊かには感じられませんでした。暗くておどろおどろしい絵を描く娘をみて家族からは心配されていたと言います。
「ありがたかったのは成安の先生方が寛大で、どんどん自分の絵を描いて若いときに灰汁や膿を出したらいいと言ってくれたことです。自分を受け入れてもらえたのが嬉しかったですし、その過程を学生生活のなかで経験できたことは、今も絵を描き続けていることにつながっていると思います」


日米で個展を開催しながら
修復師として働いたアメリカ生活

 卒業後、成安の研究生を終了したベリーさんは約10年渡米することになります。
「研究生を終えたときに、恩師であり二条城の復元模写をされている大野俊明先生から、アメリカで美術館のコレクションの修復の仕事があるから行ってみないかと。そのとき京都国立博物館で修復のアルバイトをしていたのと、私が英語や海外に興味があるのを知っていて声をかけてくださったのだと思います。即答で“行きます”と言いました」

最初はニューヨークのメトロポリタン美術館で東洋美術の修復を2年経験。表具師さんが絹や紙を修復したところに、目立たないよう色を付ける補彩という役割を担当しました。大事な美術館のコレクションの最後の修復作業のため、常に責任を感じながら勤しむ日々は苦しかったと言います。

「自分の作品制作とは正反対の繊細な作業なので、向いていないのがよくわかりました。修復室には日本人の方と日本語がペラペラのアメリカ人の方がいたのですが、職人の世界なので自分一人でやっていかないといけない。常に緊張感があってとてもしんどかったです」


[写真1枚目]左《勉強会》、中《子供》、右《6本のひも》。[写真2枚目]《Go_on_all_fours》(キャンパス、アクリル)。4つ足で這うイメージを描いたロサンゼルス在住時の作品。ヨーロッパを旅行したときに印象に残った赤いショッピングバッグを持つ人がモチーフに。今はロサンゼルスの友人宅に飾られている。

 仕事は大変だったけれど、ニューヨークでの生活は肌に合っていたというベリーさん。その後ロサンゼルスに拠点を移し、2003年に結婚。2004年にはアメリカで出産を経験します。ロサンゼルスでは修復の仕事、和紙屋さん、日本食屋さんで働きながら、育児、家事にと多忙な日々。そんな状況でもアメリカと日本の2拠点で個展を開催していたというから驚きです。


 アメリカでの生活を振り返るベリーさん。「大学ですごくお世話になった日本画の中野弘彦先生は、定期的に葉書を送ってくれていました。ずっと応援してくださっていたのは本当に心強かったです」

「子どもが寝てから絵を描いていました。変わった景色を見ると表現したくなるんですよ。アメリカでは箱に入れて日本に送れるよう小さい作品ばっかり描いていましたね。京都や東京のギャラリーに絵を送りながら、アメリカでは自分で絵をかついでギャラリーを巡り、気に入ってくださったところで個展をしていました。油絵やアクリル画が一般的なアメリカ人にとって、日本画のざらざらとした質感は新鮮だったみたいです」

描いていたのはアメリカの風景。はしごやひも、買い物袋はベリーさんの作品によく登場するモチーフです。ニューヨークやロサンゼルスの煌びやかなイメージとは違い、そこで暮らしていたベリーさんにしか描けないささやかな日常やさりげない風景は、国境を超えて受け入れられていきます。そして、表現することへの好奇心は加速し、エッチング(版画)をはじめたり、現地で手に入りやすいアクリル絵の具で描くことにも挑戦するなど、作品の幅を広げていく時期になりました。


作家活動だけでなく
アートを通じた教育にも注力

リーマンショックを機に、2008年家族で帰国し、亀岡で作家活動をリスタートすることになったベリーさん。翌年には絵画教室『のびなびあーと』を開講します。きっかけは当時4歳だった息子さん。亀岡の暮らしに馴染めるよう、一緒に工作をして友だちをつくる場所にしたいという思いからでした。数年間は児童館や文化施設で出前授業をしていました。同じように亀岡市内各所で英語を教えていた姉が、「一緒に事業をしよう!」と誘ってくれました。今の場所に教室を構え、『のびなびあーと』の継続を今も支えてくれています。


『のびなびあーと』でつくった作品や使用する道具がにぎやかに並ぶアトリエ。

 さらに『のびなびあーと』で培った経験を活かし、週末は各地でアートをテーマにしたワークショップの講師もやられています。今治市大三島美術館での企画展中には「ゴリゴリえのぐ」ワークショップを行いました。子どもたちに海で拾ってきた貝殻や珊瑚、石などを持ってきてもらい、それを日本画で使う胡粉や水干絵具のように鉢でつぶして絵を描く、ベリーさんらしいエッセンスが散りばめられた内容です。子どもたちは自分で拾った自然のものから生まれる色に感動していたと言います。

「ゴリゴリえのぐ」ワークショップの様子。

 ワークショップの内容はさまざまで、イベントに合わせて提案しています。例えば保津川下りのイベントでは、保津川下りを体験した後に保津川を描きました。子どもたちの遊び心をくすぐるポイントを熟知しているベリーさんの週末はワークショップで予定がぎっしり。絵画教室の他にもアトリエではベリーさんが講師の習字教室も週2回あり、自身の制作する時間を生み出すことが難しい状況になっています。それでも絵を描き続けられるのは、描くことが生活の一部であり、表現しながら生きていくことが自然体だから。どんな状況下でも作品を制作し続けられることをベリーさんは体現されています。


日本画ではなく
自分の絵を描いている感覚

無意識の中に湧き上がってくるものを描くベリーさんですが、はじめて意味を持たせて描いたのが、2012年の「第四回 京都 日本画新展」で大賞を受賞した《ソレデモヨガアケル》です。東日本大震災とご自身が死産を経験したタイミングが重なり、命と向き合いながら描いた作品。展示された美術館「えき」KYOTOで、多くの人の心を動かしたのは言うまでもありません。
その後は2016年に「第二回 藝文京展」で優秀賞を、2021年に「第8回東山魁夷記念日経日本画大賞展」で入選。日本画家として評価されていきます。


《ソレデモヨガアケル》(2011年/160×140.5cm/岩絵具、水干絵具、墨、色鉛筆、膠、高知麻紙)。

「画材は日本画のものを使っているのですが、日本画を描いているというよりは自分の絵を描いている感覚ですね。こうして賞をいただけることは本当にありがたいです。でも賞をとるためというよりは、出展すると作家の方と知りあえたり、絵を志している人と出会える機会になるので、新しい刺激がもらえることがモチベーションになっているかもしれません」


子どもたちに教えるときはベレー帽にエプロンスタイルのベリーさん。

 日本画の技法を磨きながら、伝統的な日本画の範囲に収まらない作品を生み出していく作家・ベリーマキコさんの道のり。決められたレールの上を歩むことでは味わえない、目の前に現れる階段を自力で一段一段登っていく人生をベリーさんは楽しんでします。そしてこれからもゆるやかな段や、急な段を登りながら絵を描き続けていくはずです。

「自分の好きな絵を描くだけなのでブランクはないですね。誰かに期待をされたり、人と比べるとしんどいかもしれないですけど、自分の絵を描いているので楽ですよ。でも毎日は息子のお弁当をつくったり、晩ごはん何にしようかなっていっぱいいっぱいですけど(笑)」



「仕事」と「制作」。“つくる時間”を積み重ねる2つの顔を持つデザイナー

INTERVIEW

卒業から5年目

「仕事」と「制作」。“つくる時間”を
積み重ねる2つの顔を持つデザイナー

グラフィックデザイナーとして、役場や企業などの建物内のサイン計画を仕事として手がける一方、WebサイトやSNSでは数々のオリジナルプロダクトを制作し、発表する辻尾一平さん。多忙な日々のなかで「仕事」と「制作」を両立する現在のスタイルのルーツは、大学生活の過ごし方にありました。

辻尾一平さん

グラフィックデザイナー

1992年大阪府生まれ。2016年にグラフィックデザインコースを卒業後、トラフ建築設計事務所、TAKAIYAMA inc.を経て、2019年に独立。フリーランスのグラフィックデザイナーとして、サイン計画や商品企画立案、ロゴデザインを手がける一方、自主的な制作を続け、WebサイトやSNSでの発表を続ける。
>>Tsujio design


言葉は不要。ひと目でわかる
デザイナーの仕事と自主制作の作品

 「珈琲」「牛乳」の文字が刻まれた、一見シンプルなグラス。そこにミルクを注ぐと「牛乳」、コーヒーを注ぐと「珈琲」、そしてカフェオレ(珈琲牛乳)なら両方の文字が浮かび上がります。注いだ瞬間、目の前で小さなイリュージョンが起こるこのグラス「Foglass」をつくったのは、グラフィックデザイナーの辻尾一平さん。


2020年に制作された「Foglass」。1枚目から4枚目の写真は、すべて同じグラス。注ぐものの色によって、グラスの文字が消えたり、出現したりする。オンラインストア「TOAL shop」にて販売され、話題となった。

 辻尾さんの主な仕事は、ロゴデザインやサイン計画。「サイン」とは、施設を訪れる人が迷うことなく目的の場所にたどり着けるよう表示するもののこと。例えば、建物のフロアマップやトイレマークなどのピクトグラム、スペースを色やアルファベットで分類し、考えなくても「見ればすぐわかる」ナビゲーションの役割を担います。どんなビジュアルにするかはもちろん、設置する大きさ、高さ、素材なども含め、空間の中で情報をデザインするのです。


宮城県山元町役場のサイン計画(2019年/TAKAIYAMA inc.での担当案件)。


島根県邑南町にある、「いわみ温泉 霧の湯」のロゴ、サイン計画を担当(2021年)。

 最初に紹介した「Foglass」は、実は仕事ではなく、辻尾さんが自主的に制作したプロダクト。ほかにも、組み立てて一輪挿しとして飾れるレターセット「hanategami」や、光の屈折を利用して、花を挿すとキュビズムの絵画のように見える花器「Cubism flower vase」など、どれもひとひねりある作品が、辻尾さんのWebサイトやSNSにずらり。その数なんと10種以上。


[写真1枚目、2枚目]2019年に制作した「hanategami」は、クラウドファンディングで支援を募り、商品化。オンラインストア「TOAL shop」で発売中。[写真3枚目、4枚目]2020年に制作した「Cubism flower vase」。花器の中と外で植物が異なる表情を見せる。

「公開している作品は、ここ2年くらいの間に仕事の合間をぬって制作したものです。自分では、仕事と自主制作とは切り分けています。仕事だと、いろんな人が関わりますし、施工や機能など現実的な問題もクリアする必要があるので、アイデアよりは条件の中でクオリティを重視して実現する一方、自主制作はアイデア優先。『これ面白いんじゃないかな?』とピュアに思うものをかたちにしています」


作品はどこから生まれる?
ひとりきりの制作秘話

 ここでふと湧き上がる疑問がふたつ。ひとつは、独特の仕掛けを持つプロダクトたちが、どのように生まれるのか? もうひとつは、多忙な仕事の合間で自主制作を続けられるものなのか? まずひとつめの疑問。どこから着想し、どうやってつくられているのか、辻尾さんに尋ねてみると……。
「アイデアはポンと出てくるというより、気になった“現象”をスマホにメモし、作品制作のときに見返して、A4の用紙にアイデアをバーっと書き出していきます。例えば、モニターの電源を切ると、意外と画面にホコリがついていることに気が付いたりしませんか? そういった“現象”のメモをもとに『グラスの色、飲み物の色、印刷の色で、消えたり出現したりする効果を出せるんじゃないか?』と考えていきます」

[写真1枚目]辻尾さんがスマホにメモしていたものの一部。壁の凹みや部分的に劣化した鉄板、雨でにじんだ看板の文字、絵画の額のような窓など、何気ない日常の中からアイデアのヒントをすくい取る。[写真2枚目]メモをもとに膨らませたアイデアスケッチ。

 “現象”から発想する辻尾さんの作品は、アイデアを言葉で説明しても伝わりにくいもの。目に見える「かたち」になってはじめて「あ!」と、人を惹き付けるインパクトと“現象”の共有が可能になります。
「『Cubism flower vase』のように、特殊な効果を持つものは、モックアップ(試作)をつくってみないとわからないので、実際につくります。これは自分で型から制作して、樹脂を加工してつくりました。自分で完成形がイメージできるものは、素材を見つけて撮影し、写真を合成して制作するものも多いですね」


[写真1枚目]「Cubism flower vase」制作過程。型から制作し、樹脂を流し込み、研磨まで自身の手で行う。[写真2枚目]「Foglass」の試作。縁取りとベタ塗り、2種類の「珈琲」の文字で、狙った効果が出せるものを探る。

 とはいえ、辻尾さん自身「仕事8:自主制作2の割合が理想」と語るように、制作は仕事とは別のところにあります。仕事にはクライアント(依頼主)と納期が存在しますが、誰かに依頼されているわけでもなければ、展覧会のように発表の締め切りもない制作をコンスタントに続けられる理由はどこにあるのでしょう?

「SNSには制作物しかアップしないようにしているんですけど、前回アップした日から間があいてくると『そろそろ何かつくらないと』という気持ちになるんです。自分のペースを崩さないためにも、できるだけSNSに上げるようにしています。それに、見てくれる人が増えることは単純に嬉しいですし、気が引き締まります。こうした制作のペースも、メモ魔になったのも、手を動かして自分でつくるようになったのも、遡ればスタートは大学の卒業制作だったような気がします」


他領域の教室に自分の机まで確保!?
「つくること」が習慣化した卒業制作

 辻尾さんが「現在の制作のルーツ」と語る卒業制作の作品は、50音順に並んだ引き出しの中ひとつひとつにプロダクトが収められた『コトバのオキバ』。
「例えば、『す』の引き出しにはスプーンとプールのはしごを組み合わせた『スプール』、『に』には『虹』の文字を7つのパーツに分解し、ある方向からのみ重なって見える『ニジのモジ』など、それぞれの言葉から発想したプロダクトを50音でつくりました」

卒業制作作品『コトバのオキバ』(2016年)。[写真2枚目]プールのはしごの先がスプーンになっている『スプール』[写真3枚目、4枚目]虹と同じように7色のパーツからなる『ニジのモジ』。[写真5枚目]「な」の引き出しに収められた『ナイスキャンデー』。[写真6枚目]銭湯の入浴券を石鹼にレーザーで刻印した『石券』。

 数もさることながら、驚くのはプロダクトのクオリティ。作品を展示する引き出しもすべて辻尾さんが制作したそう。
 「この引き出しも全部、造形ラボ(木工・樹脂・塗装作業を行うための学内専用施設)で教えてもらいながら、ずーっと木を削ってつくってました(笑)」


『コトバのオキバ』の展示風景。作品を収めた引き出しも、棚も、すべて辻尾さんがデザインし、制作。

 成安造形大学には、プロダクトやインテリアを学ぶ「空間デザイン領域」があります。卒業制作の作品を見ると、一見、辻尾さんは「空間デザイン領域」卒業なのかと思いきや、入学したのも、卒業したのもタイポグラフィやパッケージデザイン、広告などを主に学ぶ「グラフィックデザインコース」です。
「入学する頃はまだ知識がなくて、『いちばん食いっぱぐれがなさそうなのは、グラッフィックデザインかな?』という程度で、漠然としていたと思います。入学後のひとり暮らしがきっかけで、インテリアや空間に興味を持ちはじめ、空間デザイン領域の授業を受けて、さらに詳しく学びたいなと。それで2〜3年生の頃、大学に通いながら社会人が通うインテリアの学校にも週1回、1年間通ったりしていました」

 グラフィックデザインコースに属しつつ、他領域の授業でも学び、大学3〜4年生の頃には、ちゃっかりと空間デザイン領域の教室に自分の机を確保し、制作をしていたという辻尾さん。成安造形大学では入学後の転領域も可能ですが、その必要性はなかったと言います。
「基本的にどの授業も受けようと思えば受講できる環境なので、空間デザイン領域への転領域は考えてなかったですね。自分の軸はグラフィックにあったので、『将来はインテリアの仕事をしよう』とも考えてなかったですし。それよりも、興味のあることを時間があるうちに学んでおきたかったんです。好きなことなので、学んでおいて損はないと思っていました」




 大学とインテリアの学校の双方から出される課題の制作に手一杯だった時期が過ぎると、いよいよ卒業制作がスタート。4年生の1年間は、50個近いプロダクトをひたすら制作する日々でした。
「グラフィックデザインは、パソコン1台あればどこでもできてしまうので、固定された“自分の場所”を必要としないんですけど、僕の場合は作業する机がないと試作がつくれないので、他領域の僕に“自分の場所”をつくってもらえたのは嬉しかったです。何が良いかって、日々のローテーションの中で迷う要素がない。朝来て、ものをつくって帰る。これを簡単に習慣づけられたんです」

 アイデアのヒントを探して観察&メモし、手繰り寄せたそのヒントから、新しいかたちをつくり続けた卒業制作。頭も手もフル回転した1年の間に、辻尾さんは自分の制作ペースをすっかり身につけていました。
「大学4年間のなかで、卒業制作をつくっているときがいちばん楽しかったですね。毎日つくることを経験し、習慣化されたことが、4年間で得た大きな変化でした。つくるものや、方法論は当時よりも整理されてきましたが、今も続いている制作の基礎は、この頃にあると思います」


卒業後も追い求めた「好きなこと」
「やりたいこと」を続けられる環境

 卒業制作『コトバのオキバ』がきっかけで、建築の設計からプロダクト、舞台美術など領域を横断して活動する「トラフ建築設計事務所」に声をかけられ、働きはじめた辻尾さん。これまでは、グラフィックデザインと空間デザインの領域を自由に行き来していたものの、仕事となるとそうはいきません。
「僕はグラフィックデザイナーなので、建築の図面を引くことはできません。そうすると、働いているのは建築設計事務所なので、最終的にできる仕事がなくなってくるんです。自分ができることでは、会社に貢献できない。これは、かなり辛いものがありました。そこで、会社とも『グラフィックデザインの仕事をしっかりやったほうがいいんじゃないか?』という話になり、入社して1年くらいで『トラフ建築設計事務所』とよく仕事をしているグラフィックデザイン事務所『TAKAIYAMA inc.』に転職しました」


 転職後、サイン計画から展示空間、ロゴなどのグラフィックデザインを担当し、経験を積んでいった辻尾さんでしたが、多忙を極める日々の中で、制作をする時間を確保するのは困難でした。
「なかなか休日に制作することも難しく、ただ『つくりたいな』という想いがずっとありました。転職して2年ほどが経過した頃、タイミング的にも平成から令和になる年だったので『いいタイミングだな』と思い、退社して独立しました」

 2019年に独立してからは、徐々に制作も再開。最近では、WebサイトやSNSで発表した作品をきっかけに仕事の依頼が来ることも。
 「作品がベースでお声がけいただく仕事に関しては、まずアイデアが求められていると思うんですね。そういう場合には、自主制作に近いアプローチで取り組むことが多いです」


独立後の2020年、常磐精工主催のコンペに3人のチームで参加した、卓球台になるホワイトボード『ASOBOARD』が最優秀賞を受賞。商品化が予定されている。辻尾さんはアイデアやコンセプトを担当。

 学生時代から「好きなこと」「やりたいこと」に“どっぷり”浸れる環境を追い求めて身を置き、「考える」「つくる」トレーニングを積み重ねてきた辻尾さん。社会人となった今もそれは変わらず、仕事と制作の双方で「考える」「つくる」時間を重ね続けています。
「頭に思い描いていたものを実際に手を動かしてつくっていると、想像を超えて『おっ!』となる瞬間がたまにあるんです。その感覚を何をつくるときでも味わえるようになりたいですね。自分が思っている以上のクオリティが出せるように手に覚えさせるというか、ビジュアライズの力を向上させていきたいです」

 そんな辻尾さんだからこそ、学生時代の自分におくるアドバイスは少々辛口でした。
 
 「理屈っぽくて、あまり聞く耳を持っていない学生だったので、きっと当時の自分に何を言っても響かないと思うんですけど……。ひとつ言うとしたら『もっとビジュアライズに力を入れたほうがいい』と、アドバイスするかもしれません。学生の間は、自分の作品をみんなに説明して評価される『合評』があるので、説明することを前提に制作することも多かったように思います。ただ、パッと見たときに『面白そう!』『カッコイイ!』と、人が惹きつけられる感覚って、説明して共有するのはすごく難しいんですよね。そういうことを、もう少し早い段階から意識できていたら良かったですね。……でも、当時そこまで考えていたら、卒業制作は到底間に合ってなかったと思います(笑)」



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